会津藩殉難者墓地
会津藩殉難者墓地(あいづはんじゅんなんしゃぼち) 2008年05月17日訪問
真如堂から金戒光明寺の境内につながる道の左側に会津藩殉難者墓地がある。
安政7年(1860)大老・井伊直弼が桜田門外で水戸藩浪士達によって暗殺され、安政の大獄で弾圧されてきた松平春嶽ら開明派の人々が復権してくる。その中で、兄・斉彬の死後、藩主となった島津茂久を補佐する立場となった国父の島津久光は、文久2年(1862)公武合体運動推進のため兵を率いて上京する。斉彬の遺志であった朝廷と幕府と雄藩の政治的提携を継ぐための行動であったと考えられている。久光の働きかけにより幕政改革を要求するため勅使を江戸へ派遣することが決まり、久光も勅使大原重徳に随従することを命じられる。朝廷が幕府に望んだことは、将軍徳川家茂の上洛、薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩など沿海5大藩で構成される五大老の設置、一橋慶喜の将軍後見職と前福井藩主松平春嶽の大老職就任などの3点であった。島津久光および朝廷の公武合体派公卿らに主導されて文久の幕政改革が行われる。一橋家当主・徳川慶喜を将軍後見職に、前越前藩主・松平春嶽を新設の政事総裁職に任命している、また京都における悪化した治安の取り締まりのため、従来の京都所司代とは別に京都守護職を新設し、会津藩主松平容保をその任に当てている。その他にも参勤交代の緩和、蕃書調所を洋書調所に改め洋学研究の推進、西洋式兵制の導入などを手がけている。
なお久光の在京中の文久2年(1862)4月23日に伏見の寺田屋に集結した有馬新七らの尊攘派過激分子を粛清する寺田屋事件を、江戸への勅使随従の帰り途の文久2年(1862)8月21日に生麦事件を引き起こしている。
会津藩主・松平容保は徳川慶喜・松平春嶽からの再三の就任要請を断っている。既に浦賀、蝦夷地の警備の任にあったため、藩財政は窮乏状態にあり、家臣も反対で意見が一致していた。しかし春嶽が会津藩祖・保科正之の「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに容保は承諾してしまう。松平容保は水戸藩主徳川治保の子孫で、美濃国高須藩主・松平義建の六男である。兄には尾張藩主となる徳川慶勝と徳川茂徳、弟には桑名藩主・松平定敬などがあり、高須四兄弟と呼ばれていた。容保は8歳で8代藩主・松平容敬の養子となり、嘉永5年(1852)に会津藩を継いでいる。この養子という立場が、最終的に京都守護職を受け入れざるを得なくなったのではないかと推測される。この任を受けた君臣は会津藩江戸藩邸にあって「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したという話しが残されている。
文久2年(1862)閏8月1日に就任し、その年の12月24日1000の兵と共に上洛し、金戒光明寺に入っている。本間精一郎遭難地や洛東の町並みの項で触れているように容保が入洛した文久2年(1862)は、京の町は天誅の嵐の真っ只中であった。京都守護職は京都所司代や京都町奉行を傘下にしていたが、平時の組織であったためあまり役に立たなかった。そのため会津藩士以外の戦力として見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組や守護職御預かりとした新選組に頼むところが多くなる。元治元年(1864)実弟である桑名藩主・松平定敬が京都所司代に任命され、兄弟で京の治安を守る形となる。八月十八日の政変が起こり、朝廷内から尊皇攘夷派の公卿が追放されると、容保は文久3年(1863)末に徳川慶喜や島津久光らとともに朝廷参預を命ぜられている。この参預会議は短期間で崩壊するが、徳川慶喜と松平容保・定敬兄弟が連携して、江戸の幕閣から独立した権力基盤を京の地で築くこととなる。所謂、一会桑である。これは幕政の弱体化の進行により、朝廷や雄藩との政治的調整が重要となり、江戸では政策の決定ができなくなっている。
慶応3年(1867)10月に徳川慶喜は大政奉還で江戸幕府の支配を形式上終焉させている。しかし将軍職は辞せず、京都守護職も残される。新政府を主導する薩摩藩や長州藩は京都に大兵を擁する一会桑の脅威を取り除くため、12月9日宮中の小御所で行われた会議を経て王政復古の大号令が発せられると、摂政・関白・将軍職と共に京都守護職も設置後6年をもって廃止された。
慶応3年(1867)12月11日会津藩と新選組は伏見奉行所に移る命令が出ている。そして翌12日に徳川慶喜は松平容保、松平定敬、板倉勝静らを引き連れ大坂城に入り、鳥羽伏見の戦いへと連なっていく。
会津藩殉難者墓地には352人が祀られている。文久2年(1862)の入洛から慶応3年(1867)の6年間に京の地で亡くなった237霊、そして鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀るために明治40年(1907)建立された慰霊碑がある。なお禁門の変の戦死者は22霊を除いても6年間に200人以上の人が亡くなっていることは異常な状況であるように感じる。大佗坊さんのHP 会津いん東京 の中にある 黒谷会津藩墓地では、この墓地に祀られている方々を詳しく記している。興味のある方は是非ご参照ください。ここには、産寧坂・二寧坂・一念坂の項で触れたように、明保野亭事件で切腹した柴司の墓もある。元治元年6月5日(1864)新選組による池田屋襲撃事件が発生する。 この事件に関係した者の掃討作戦中の6月10日、明保野亭を探索していた新選組と会津藩は不審者を認め、槍で刺して捕えている。それが土佐藩家老・福岡宮内家臣の麻田時太郎であった。新選組は、武田観柳斎、浅野藤太郎を含む隊士15名と会津藩士5名が動員されていたので、現場の指揮権は新選組にあったと思われる。しかし土佐藩士・麻田時太郎を刺したのが会津藩士柴司であったため、問題は複雑化することとなる。結局、池田屋事件後の殺伐とした雰囲気の中で生じた些細な過ちが会津藩と土佐藩の間の外交事件にまで発展し、2人の藩士が命を落とすこととなっている。
この墓地は上記のように明治40年(1907)に鳥羽伏見の戦いの戦死者を祀る慰霊碑を建立すると共に、墓地の整備と入口の位置の変更、門柱の建設、そして墓所の参道に道標を設けている。そのための募金趣意書が大佗坊さんのHPに残されている。その中に下記のような文がある。
茲に会津小鉄と称する故上坂仙吉氏あり、曾て我藩の恩義を受けたるを徳とし、独力其酒掃に任し忌日毎に香花を供して幽魂を慰め多年之を怠らさりしか、往年不帰の客となれり。その後、矢ッ車大西松之助氏、小鉄の志を継き、西雲院の住職家田真乗師等と心を協せ力を合せて墓地の清除並に忌日の法要を営み、在京阪神等の旧藩人を會して忠魂を追吊し来り、漸くにして今日の現状を保つを得たり。
上坂仙吉こと会津小鉄の出自についてはいろいろな説があり定かでない。会津小鉄と呼ばれるようになったのは、会津出身ではなく会津の印半纏を着ていたためと言われている。文久2年(1862)松平容保が京都守護職として入洛すると、小鉄は会津藩中間部屋の元締・大沢清八と懇意になり、会津屋敷の出入りを許されている。侠客の小鉄の表家業は口入れ屋であり多くの配下を抱えていたため、会津藩や新選組の市内警護の支援を行っていたと思われる。鳥羽伏見の戦いでも会津藩のために軍夫を用立て、幕府軍が敗れると、置き去りにされた会津藩兵と桑名藩兵の遺骸を埋葬している。
小鉄は明治維新以後も黒谷の会津墓地を守り、明治18年(1885)白川の自宅で亡くなっている。小鉄の墓は会津墓地を管理している西雲院の境内にある。また小鉄の遺志を継いだ矢ッ車大西松之助氏とは、会津小鉄一家に属する侠客で、この墓地整備が行われた後、明治43年(1910)に亡くなっている。
なお、金戒光明寺の境内に多くの道標があり、これが会津墓地へ導いてくれる。これらの碑は昭和33年(1958)に元越後交通社長であった柏村毅が建立したものである。金戒光明寺の奥に位置する会津藩殉難者墓地は、人通りも少なく静謐さを保ち、手入れが行き届いている。
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