アーカイブ:2010年 2月
聖護院・岡崎の町並み
聖護院・岡崎の町並み(しょうごいん・おかざきのまちなみ) 2008年05月17日訪問 聖護院・岡崎の町並み 岡崎を流れる白川 熊野神社から聖護院にかけては聖護院の森と呼ばれていた。平安神宮の北側に市立錦林小学校がある。錦林は「きんりん」と読み、紅葉の頃は錦の織物の様に美しいことから名付けられている。ちなみに錦林の名を持つ小学校は現在3校あり、岡崎入江町、鹿ヶ谷宮ノ前町、吉田上阿達町とかなり広域に渡っている。また市バスの錦林車庫前は浄土寺真如町にある。これらより、錦林という地名が吉田山と真如堂・金戒光明寺の周辺の森に使用されていることが分かる。 日文研に収蔵されている慶応4年(1868)… ►続きを読む
岡崎神社
岡崎神社(おかざきじんじゃ) 2008年05月17日訪問 岡崎神社 本殿 御辰稲荷神社から丸太町通を平安神宮・神苑の鬱蒼とした森を見ながら東に進み、蒲生君平先生仮寓御趾の石碑前を過ぎる。丸太町通と白川通が交わる天王町の交差点の手前に、黒谷の南斜面から森が続くように木々の色が濃くなる場所がある。丸太町通に面した細い入口には石の鳥居が建ち、背の高い木々が並ぶ参道は奥に向けて少しづつ上り、岡崎神社の本殿へと導く。 社伝によると延暦13年(794)桓武天皇の平安京遷都に際し、王城鎮護のため都の四方に建てられた社の一つとされている。東方を守護したころから東天王社と称したとされている。この東天王社… ►続きを読む
蒲生君平先生仮寓御趾
蒲生君平先生仮寓御趾(がもうくんぺいせんせいかぐうおんあと) 2008年05月17日訪問 熊野神社 丸太通から 御辰稲荷神社から丸太町通の北側を天王町の交差点に向かい歩く。平安神宮の東境界を走る岡崎通と丸太町通が交差する地点の手前の民家の軒先に2本の石標が立つ。 左の石標には小沢蘆庵宅址とある。これは大正6年(1917)に京都市教育会が建立している。 小沢蘆庵は江戸時代後期の歌人であり、国学者。享保8年(1723)尾張藩竹腰家家臣・小沢喜八郎実郡の末子として難波に生まれる。小沢氏は大和宇陀郡の松山藩織田氏家臣であったが、祖父の代に家名断絶したため、父は諸国を流浪した後大坂に住んでいる。… ►続きを読む
御辰稲荷神社
御辰稲荷神社(おたついなりじんじゃ) 2008年05月17日訪問 御辰稲荷神社 積善院と須賀神社の前から、再び丸太町通に戻る角に、小さなお稲荷さんがある。ここが御辰稲荷神社である。 祭神は本社 宇迦之御魂神、猿田彦神、天宇受賣神。末社・初辰大明神社は初辰大明神。末社・福石大明神社は福石大明神。 聖護院の森の神の霊夢を見た新崇賢門院は、宝永2年(1705)東山天皇の勅許により御辰稲荷神社は創祀される。 新崇賢門院は延宝3年(1675)櫛笥隆賀の娘として生まれている。東山天皇の後宮に入り、新大典侍となる。中御門天皇と直仁親王および3皇子1皇女を生む。直仁親王は、世襲親王家の一つ閑院宮家… ►続きを読む
須賀神社
須賀神社(すがじんじゃ) 2008年05月17日訪問 須賀神社 左に交通神社 右に須賀神社の碑が並び建つ 積善院の道路を挟んで南側に須賀神社がある。 祭神は素戔嗚尊、櫛稲田比売命を主神に久那斗神、八衢比古神、八衢比売神を加え、五柱を祀る。 貞観11年(869)現在の平安神宮内にある西天王塚辺りに、西天王社として創建されたのが始まり。現在の岡崎神社である東天王社と一対をなしていた。その後、平安時代末期の永治元年(1141)美福門院が白河の地に建てた歓喜光院の鎮守として創祀された。 美福門院は永久5年(1117)藤原長実の子・藤原得子として生まれている。類まれな美貌の持ち主と言われ、長承… ►続きを読む
積善院
積善院(せきぜんいん) 2008年05月17日訪問 積善院 五大力尊の赤い幟が立つ 聖護院門跡の東隣には、五大力尊の赤い幟が立つ積善院がある。五大力とは、不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五つの明王の総称である。毎年2月23日には五大力尊法要が行われている。 積善院は聖護院の塔頭寺院で鎌倉時代初期の創建と伝わる。聖護院門跡が支配していた本山派山伏の統括事務を代行する院家で栴ノ坊(なぎのぼう)と呼ばれていた。元々は熊野神社の西北、現在の京都大学医学部付属病院のあたりにあった。 凖提堂は江戸時代に建立された準提観音を本尊とする寺院で、熊野神社の東南にあった。明治の… ►続きを読む
聖護院門跡
本山修験宗総本山 聖護院門跡(しょうごいんもんぜき) 2008年05月17日訪問 聖護院門跡 熊野神社の境内を出て、東山丸太町の交差点を東側に渡り、丸太町通の一本北側の道、金戒光明寺へと続く春日上通を東に100メートルも進まぬうちに、築地塀に囲まれた大きな地所が現れる。ここが聖護院門跡である。 聖護院の創建は、熊野神社の項で既に触れたように、寛治4年(1090)増誉大僧正が白河上皇から熊野三山検校を任命されると同時に賜った聖体護持の2字を取った聖護院である。 増誉大僧正は長元5年(1032)に大納言藤原経輔の子として京に生まれている。その後、6歳で園城寺(三井寺)の乗延に師事し、行円… ►続きを読む
熊野神社
熊野神社(くまのじんじゃ) 2008年05月17日訪問 熊野神社 丸太通から 四条烏丸より京都市営バス203号に乗車する。四条通を東に進み、鴨川を越える。そのまま直進すると八坂神社の楼門が現れる。左折し東大路通を北上する。三条通、仁王門通、二条通そして琵琶湖疎水を過ぎ、丸太町通の交差点、熊野神社前で下車すると目の前は熊野神社である。 本殿に伊弉冉尊、相殿に伊弉諸尊、天照大神、速玉男尊、事解男尊を祀る。 修験道の始祖といわれている役小角から数え十世となる僧日圓が、弘仁2年(811)紀州熊野大神を勧請したのが始まりとされている。 熊野神社 熊野神社 白河上皇は熊野御幸を行い、… ►続きを読む
豊国廟
豊国廟(ほうこくびょう) 2008年05月16日訪問 豊国廟 拝殿 新日吉神宮から豊国廟参道に戻り、さらに上っていく。京都女子大学の校舎が参道の両側に建ち、真っ赤な車体にプリンセスラインと書かれたバスが並ぶ停留所を過ぎると、両側が駐車場として使用されているものの、樹木の密度も高くなり豊国廟の参道らしくなってくる。さらに進むと大きな石灯籠の先に石段、そしてその先に石の鳥居が現れる。鳥居を潜ると正面に細長い拝殿が待ち構える。左側に建物が建ち、右手は開けているが、その奥はプリンセスラインの駐車場として使用されているようだ。このあたり一帯が30万坪はあったといわれる豊国廟の太閤担だったのだろう… ►続きを読む