霊鑑寺門跡
臨済宗南禅寺派円成山 霊鑑寺門跡(れいかんじもんぜき) 2008年05月17日訪問
安楽寺の山門の下に続く美しい石段を後にして、南に100メートルも下らないうちに、霊鑑寺門跡の大きな石段が現れる。石段の右手には後水尾天皇創建谷の御所霊鑑寺門跡の碑が建つ。
霊鑑寺は臨済宗南禅寺派の門跡尼寺で山号は円成山。谷の御所の他にも鹿ヶ谷比丘尼御所とも呼ばれる。
霊鑑寺については資料も少なく、不明なことも多かった。特にその創設と如意寺との関係については、京の通称寺 の 169谷の御所・鹿ヶ谷の妙見さん(http://tuusyou.hp.infoseek.co.jp/t169.html : リンク先が無くなりました ) を参考に書かせて頂いた。
霊鑑寺は承応3年(1654)後水尾上皇の皇女・浄法身院宗澄を開基として創建している。
宗澄女王は寛永16年(1639)後水尾上皇と園光子(壬生院)との間に第11皇女として生まれている。父である後水尾上皇は既に、寛永4年(1627)に明正天皇に譲位をしているので、上皇となってからの子供である。宗澄が入寺した霊鑑寺は現在私たちが見るものとはかなり異なっていたようだ。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の如意寺には、かつて智証大師こと円珍(弘仁5年(814)~寛平3年(891))が建立した大津の園城寺から鹿ケ谷を結ぶ巨大な山岳寺院のことに触れている。この如意寺については、かげまるくん行状集記 の中にある 本朝寺塔記 第17回如意寺跡に詳しく記されているので興味のある方はご参照ください。拾遺都名所図会はこの如意寺の説明の最後に以下のようなことを書いている。
乱逆の世滅亡し、久しく荒廃の地となりしを、霊鑑寺尼公御再建あつて、旧地の麓今の所に小堂をいとなみ給ふ
そして図会には、霊鑑寺の南に如意寺が描かれている。これは現在のノートルダム女学院あたりだと思われる。霊鑑寺の南を走る道は鹿ケ谷の谷線となっている。図会の説明の中にも
霊鑑寺の南にして、谷を隔て隣る
とある。この地にかつての如意寺を偲んで新たな如意寺を建てている。その元となっているのが、先の「京の通称寺」では、江戸時代初期の尼僧・了性院の結んだ庵であったとしている。
了性院は正三位参議持明院基孝の娘・孝子として生まれている。若い頃より朝廷に仕えて新内侍となり、後陽成天皇の寵愛を得て慶長7年(1602)第6皇子・常嘉親王を生む。慶長14年(1609)理由は定かではないが後陽成天皇の怒りを買い、朝廷から退出する。常嘉親王が幼時に入寺した関係から、妙法院の里坊に住むようになっている。そして慶長17年(1612)には、常嘉親王の所領地であった鹿ヶ谷の一部を譲り受け、ここに庵を結び閑居の地と定め、剃髪し了性院と称する。拝領した屋敷地の広さは1607坪、知行は120石であったとされている。了性院はこの庵で30余年過ごした後、寛永20年(1643)後水尾上皇の夫人・東福門院に屋敷地と知行を存続出来る様に願い出ている。そして翌21年(1644)に没している。
了性院が亡くなって6年後の慶安3年(1650)後水尾上皇は相続した地所内に勅願寺を建立し、かつての如意寺を再興する。さらに4年後の承応3年(1654)宗澄女王は得度し宋澄尼と称される。そして入寺するために建立された寺院は、父・後水尾上皇より円成山 霊鑑寺の山号寺号が下賜される。霊鑑寺はかつての大寺院を再興した如意寺に併設される形で建てられている。宋澄尼は如意寺の住職も兼務している。
延宝6年(1678)宋澄尼は40歳の若さで亡くなり、廬山寺境内の墓地に葬られる。 第2世門跡には後西天皇の第3皇女・宗栄女王が選ばれる。後西天皇は、既に寛文3年(1663)弟の識仁親王に譲位しており、新院御所に住まわれていた。寛文13年(1673)の大火により類焼したため、延宝3年(1675)に京都御所築地外に院御所が新築される。そして貞亨2年(1685)に上皇が亡くなられると、院御所の建物の解体と移築が行われる。貞亨3年(1686)御休息所、侍部屋、御物置が、霊鑑寺と如意寺が併設されていた地の北側、すなわち現在の霊鑑寺の地に移築される。この時に移築された建物は玄関と書院の一部分として現存している。
このように、宗栄尼の時代に、後水尾上皇が建立された霊鑑寺と如意寺に隣接する場所に新しい霊鑑寺が作られていったということになる。以後は江戸時代末期にかけて徐々に寺域や建造物の増強・整備が行われ現在に至っている。本堂は、第4世門跡・宋恭尼の寛政6年(1794)に江戸幕府第11代将軍徳川家斉からの寄進を受けている。その宋恭尼も文政4年(1821)に53歳で亡くなられる。そして哲学の道の項で触れた文化13年(1816)生まれの宋諄女王が第5世門跡となり、入寺・得度したのが、宋恭尼が亡くなられてから2年後の文政6年(1823)のことであった。この宋諄尼の時代に幕末、そして明治維新を迎える。王政復古とともに、国家神道が隆盛になり、元皇族が寺院住職となっていることが問題とされるようになる。明治4年(1872)に門跡制度が廃止され、皇室から門跡寺院へ入寺していた人々は、僧籍を去り皇族の籍へ戻る事が定まる。そのため宋諄尼も明治6年(1874)には伏見宮家へ復籍されている。 第6世門跡から現在の第9世門跡までは皇族家以外の人が就任している。
如意寺は廃仏毀釈の影響を受け、明治7年(1875)に廃寺となり、寺地の大部分は失われている。
霊鑑寺は通常非公開であるが椿の咲く春と,秋の紅葉の時期に特別拝観が行われる。
霊鑑寺の南を通る道の傍らに此奥 俊寛山荘地の碑が建つ。法勝寺執行俊寛は、治承元年(1177)、自らの山荘で平氏打倒の密議を行う。その首謀者と目され薩摩国鬼界島に流される。このことについては法勝寺の跡地と考えられている満願寺の項で少し触れている。また 本朝寺塔記 第17回如意寺跡 ではこの先の山中に建てられた俊寛僧都鹿谷山荘跡碑に至る道が記されている。ただしこの碑が建つ位置も建碑者西垣精之助の夢に出た場所とされているから歴史的に正しいとは考え難いが、イメージとしてはこのような山の中という感じであろう。
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